特別講義:カシミヤの歴史③

特別講義:カシミヤの歴史③カシミヤストール専門店 Lity&co

今日も元気にカシミヤ特別講義の歴史の時間じゃ。

 

<カシミヤショール、ヨーロッパへ>

貿易によりこのカシミヤショールをヨーロッパ諸国に販売されるようになって、このカシミ ヤの真価に最も早く気づいたのはイギリス人だったのじゃ。

 

1775年のイギリスではカシミヤシャールは すっかり定着し、愛されてるようになっておった。

イギリスだけじゃなく、フランスの女性たちからも人気を集めておったの。

それらは当時描かれた肖像画からよくわかる(※)。

 

中にはカシミヤショールを着こなす女性た ちのみを描く対象とした芸術家もいたほどだったのじゃ。

当時のシンプルなドレスには、様々な模様が織られたカシミヤショールは非常に良く合っていたのー。

当時の社交界で行われるダンスで もこの柔らかく繊細なカシミヤショールが持ち込まれ、踊るたびにしなやかに、そして優雅に舞うショールが多くの紳士を魅了したと伝えられておる。

 
1800年頃になるとフランスではカシミヤショールが一大ブームとなったのじゃ。

 

カシミヤショールは エレガントな女性たちの必需品となり、当時カシミヤショールはミンクのコートに匹敵する高級品であるにも関わらず数枚は持っていなければいけないほどじゃ。

そしてその需要により、カシミールの織り手たちがより効率的にショールを織る方策を産み出すことを求められたのじゃ。

 

そして職人はショー ルを2つの部分に分け、2台の織り機で織り、最終的に1枚に繋ぎあわせる方法を生み出したのじゃ。

この繋ぎは、ラフガールと呼ばれる特別な職人が糸を1本1本経糸を針で紡ぐ、非常に繊細な作業が必要じゃった。

 

この方法のおかげで、もう一つの方法であるショールの模様を刺繍することによって、織り機で模様を作る方法に比べて、3分の1程度の短時間で仕上げることができるようになったのじゃ。

当時のヨーロッ パでは刺繍は装飾芸術の最も難易度の高いものと認識されていたため、この方法は彼らを非常に驚かせたのじゃ。

というのも、刺繍とは非常に正確さが求められる方法じゃから、少しの失敗で全てが台無しになり、初めの織りからやり直さなければなるからの。

 

このようにして、当時無地の生地に刺繍で装飾されたカシミヤショールをアームリーカール(amlikar)、織り機で模様を作ったショールをカーニーカール(kanikar)と呼ばれておる。

 

カシミヤショールは人気は衰えることを知らず、それどころかますます人気となり、1810年には宝石とともに結婚の際に手渡される結納の品となり、既婚者のみに許された贅沢品となったのじゃ。

 

ナポレンは彼の妻、マリー・ルイーズに17枚ものショールを送ったことが当時の記録に残されていることからも、その重要性を知ることができるの。

 

しかも1806年、ナポレンの行った大陸封鎖でイギリスはカシミヤショールが輸入できなくなり、その値段は法外な値段で取引されるようになったのじゃ。

そのためイギリスの織物業者たちはなんとか輸入していたインド品のカシミヤの品質に追いつくべき、精力を傾けたのじゃ。

しかし、ロシア経由でカシミヤの毛を入手し、カシミール同様の織り方を真似てもその品質に追いつくことができなかったのじゃ。

ヨーロッパは結局、この繊細を極めた織物を19世紀終わりまで作ることはできなかったのじゃ。

この歴史からインドのカシミヤに対する技術の高さがわかるのー。

 

※:ジャック・ルイ・ダヴィッド作 (ナポレンの肖像画「ベルナール峠からアルプスを越 えるボナパルト」で有名) 侯爵夫人が肩に薄手のショールをまとっている。ショールにはシンメトリーなパルメット模様が あしらわれている。

 

この記事を書いた人

カシミヤ博士

カシミヤ大好き。カシミヤ博士